きっかけはいつも偶然 ~前編~

人生紆余曲折。風の向くまま気の向くまま。道は気ままに分岐し、気づくと思っても見なかったところにいる。自分がこれまでたどってきた道を、「きっかけ」に注目して振り返ってみようと思う。何をしてきたかではなく、どうしてそうなったのかという観点から。

※本当は1エントリで書ききるつもりだったのだけれど、7000字近く書いてまだ東京編だったので前後編にわけることにした。前編は東京編、後編は北海道編にする予定です。あまりにも長いので、見出しごとにショートショートみたいに読んでください。全部通して読まなくてもたぶん楽しんでもらえると思います。

この世との出会い

きっと大変な偶然がたくさん重なって、生まれた。生まれたのは東京の杉並。ちょうど今所属している会社の阿佐ヶ谷スタジオがあるあたりの病院だった。もちろん覚えてない。誕生日が同じ著名人はスティーブン・セガール(カタカナだとセガールが一般的だけどSeagal だからセーガルの方が近いんじゃないかと思う)と和田アキ子。

音楽との出会い

テレビの主題歌をカセットテープに録音し、ひたすら繰り返して聞いていたというからもともと音楽は好きだったろう。ウルトラマン80 の歌など、本編は何も覚えていないけれど歌だけは今でも歌えるほど覚えている。好んで音楽を聴き、歌を歌う子どもだったようで、そういう子を持つ親は割と、楽器をやらせてみよう、と思うのではないか。僕もその例にもれず、小学校に上がる頃から楽器を始めた。

楽器との出会い

5歳の頃、エレクトーンを習い始めた。そのきっかけはよく覚えている。同い年の女の子のお母さんがうちの母とママ友で、その子が受けているレッスンを見学しに行った。

そこで初めて、エレクトーンという楽器を見た。色とりどりのレバー(レバーなのが時代を感じる…)と、少しずらして配置された二段の鍵盤、足元にもペダル鍵盤。

すごい機械だ! と思った。僕がエレクトーンに惹かれたのは楽器としてよりもむしろ、ウルトラ警備隊の基地にあるコンソールみたいなその「未知の機械感」であった。

やりたい! すぐ習いに行きたい!

そう言って習いに行くことになった。

すごそうな機械にはあっという間に飽きた。練習は嫌いだった。グレードテストという進級試験みたいなものにもまるっきり興味がなかった。

楽しくなったのは小学校も高学年にさしかかり、ドラゴンクエストの曲なんかを弾くようになってからだった。そして楽しくなってきたころ、中学受験のためにエレクトーンは辞めた。

作曲との出会い

僕が通っていた小学校は、運動会で歌う歌を毎年児童から募集した。たしか歌詞は授業内で書かされたものから選抜され、選ばれた歌詞に対して曲が募集される。

僕はこれに、小学校5年のときに応募して選ばれた。よく覚えている。いけすかないマセたガキであった僕は、4小節×4段のメロディを、きっちり起承転結にわけ、歌詞のリズムを重視して、2段目が細かいリズム、3段目は大きなメロディでダブルドミナントが出てくる、みたいな姑息な曲を書いた。

こうやれば選ばれるでしょ、と思って書いて、その通り選ばれた。そんな小学生イヤだ。僕だけど。

翌年、6年生の時には応募しなかった。応募しなかったら音楽の先生が来て、「どうして出さないの?」と言った。これも良く覚えている。僕はこう答えた。

「去年選ばれた僕が二年続けて選ばれるということはあり得ないから。」

思えばこのころから、そういう社会の仕組みというかしがらみというか、馴れ合いの忖度みたいなものが嫌いだったのだろう。

ベースとの出会い

中学に上がってすぐ、父に当時好きだったT-SQUARE というバンドのライブに連れて行ってもらった。NEW-Sというアルバムのツアーだった。エレクトーンをやっていた僕は、なんとなくそのまま鍵盤楽器をやるつもりでいた。それが、このT-SQUAREのライブを見たら「ベースがかっこいい!」と思ってしまい、僕はベーシストになろうと決めた。

決めたらものすごく良いタイミングで、クラスの友達が、ベースを買っちゃったけどギターの方が良かった、と言い出したのでそのベースを買い取った。Aria-ProII というブランドのAVB-800 というベースだった。型番まで覚えている。

コンピュータとの出会い

ベースを手に進学の道から外れて音楽学校へ進んだ僕は、コンピュータミュージックというものを知ることになる。それまではシーケンサーという言わば自動演奏記録装置みたいなものを使って、シンセサイザーを鳴らして音楽をやる、というようなスタイルだったのが、そのシーケンサーの役割をソフトウェアで担う、コンピュータミュージックというのがあることを知る。やってみたい。

これからは音楽でもコンピュータを使えないとダメだろう。

当時、コンピュータミュージックと言えばMac だった。アップルのマッキントッシュ。ところが、当時音楽学校で編曲の先生が、「これからはWindowsだと思うよ」と言った。

繰り返すが、この当時そんな気配はまるっきりなく、どう考えても音楽やるならMac という世界だったのだ。プロのミュージシャンでWindows で音楽をやっているような人はおそらく、一人もいなかったのではないか。

まだ誰もやっていないことをやる、というのが僕には魅力だった。だからWindows のPCを買った。

最初に買ったPCはCompaq のタワー型のもので、Windows 95搭載。CPUはMMX Pentium 200MHz 。当時の最速のCPUであった。たしか35万円ぐらいした(当時)。

これを買った話をしたら、前述の編曲の先生以外の、ベースの先生、ギターの先生、その他いろいろに、「なんでWindows 買うんだよ!」と言われた。先生にこれからはWindows だって言われたんで、と言うと「それ騙されてるよ!!」とも言われた。

でも結果、その後世間は圧倒的にWindows になった。ここでWindows 機を買ったことで僕はその後DOS/V機の自作、Windowsのカスタマイズ、古くなったPCにLinux を入れてサーバにする、などといういろいろなことに手を出すことになったわけで、この選択は間違っていなかった。

ものを売る仕事との出会い

前に書いたように、僕は楽器メーカーのローランドで、DTM(デスクトップミュージック)関連の商品を売る販売アシスタントの仕事をしていた。その仕事はDTMアドバイザーという名目で募集されていた。応募資格はローランドの商品を使用してDTMをやっている人。

僕はその資格を満たしていないまましれっと応募して合格した。合格した直後に、実は違うソフトしか触ったことがない、1日で覚えるからクレ、と言って、ソフトウェアをもらい受けた。僕の担当についた営業さんは驚き呆れつつサンプルをくれた。若いころの僕は勢いがありすぎる。

僕が売ることになったのは「ミュージ郎」という商品で、シーケンサーの役割をするソフトウェアと、音を出す音源ユニット、接続ケーブル等一式がセットになったパッケージだった。当時同梱されていたソフトはCakewalk のバージョン5。

それからヨドバシカメラに派遣され、「僕が出会ったすごいやつ 01」の彼に出会って販売を学んだのであった。

VJとの出会い

ヨドバシカメラでは、同じ売り場で映像関係のものも扱っていた。その中に、当時流行っていたというか、今思うと少し落ち着いてきたころだったのだと思うけれど、VJ(ヴィジュアルジョッキー)のソフトウェアというのがあった。VJというのはDJの映像版、という説明がされていた。DJがたくさんの音楽をつないで音を演出するように、VJはたくさんの映像素材をつないで映像を演出するのだ。VJが使う素材の多くは今で言うモーショングラフィックスのような感じのもので、僕はそれに強く惹かれた。

当時VJブームを牽引したmotion dive というソフトウェアがあり、僕はそれのサンプルを、販売代理店の営業さんからもらった。あっという間にこれにハマり、ローランドから給料をもらっているにもかかわらず、motion dive もけっこうな数を売った。

ローランドも系列ブランドからVJでの使用を想定したビデオミキサー(V-5に代表されるシリーズ)を出していたので、ローランドにもかけあって、そっちの商品についても勉強したい、と申し出た。この方向はのちにDV-7というビデオ編集機が出たときに、そのアドバイザーとしてセミナー講師をやるという形で仕事につながった。

Web との出会い

モーショングラフィックスみたいなもの(そういう呼称は知らなかったので、VJ素材みたいな映像、と言っていた)を作りたい! どうやらFlash というソフトを使って作るようだ(これ実は間違っているのだけれど、最初に入ってきた情報はこうだった)。

そこで僕はほとんど調べもせずに、macromeia という会社から出ていたFlash 3というソフトウェアを買った。(Flashは後にAdobe Systemsに買収される)

Flash を使ってモーショングラフィックス風のアニメーション(ほとんどモーションタイポグラフィだった。文字が動くやつ。)を作り、それをWebサイトとして公開したい、と考えた。

当時自分のホームページ(Webサイトという言い方はされていなかった)を持つというのも流行り始めていて、同じヨドバシにヤマハから派遣されてきていた人がそういう方向に強い人だったのでいろいろ教えてもらいながら僕も作ってみた。それからしばらく、僕はFlash バリバリの、情報を発信するという視点から見るとまったく話しになっていないようなホームページを運用していた。1997年かそのぐらいのことだ。

AfterEffects との出会い

その後VJの人たちのインタビューなどを読んでいくと、どうやら彼らが使っているのはFlash ではなく、After Effects というソフトウェアらしいということがわかってきた。当時After Effects は通常版とプロフェッショナル版があり、プロフェッショナル版は19万8千円もした。Cakewalk で録音もできるというPro Audioというのが8万円ぐらいだった頃だから、19万8千円という値段は桁外れだった。

これを僕は、あまり迷わずに買った。After Effects 5。買ってすぐに5.5が出てアップグレードしたぐらいのタイミングだった。

このころ、僕はローランドのアルバイトをやめ、カラオケや着メロ(懐かしい)のデータを作る仕事をしていた。ローランドのバイトで覚えたCakewalk でデータを作り、レコンポーザというDOS時代からあるシーケンサで成形して納品する、というような作業だった。やっててよかったWindows、という状況がすでに訪れていた。

こうして、仕事で音楽をやりながら、趣味で映像を作る、というスタイルになった。

音楽出版との出会い

そうこうしていると、卒業した音楽学校の先生から、音楽雑誌を手伝わないかという話をもらった。ヤマハの出版社であるヤマハ・ミュージックメディアという会社が、今も続いている「月刊Go! Go! Guitar」 という雑誌をやっていて、その編集部が今度バンド向けの雑誌、「月刊バンドスタイル」というのを作るので、その楽譜作成を手伝ってほしい、というのだ。

僕は二つ返事で引き受けてその編集部へ編集アシスタントとして通うことになった。

主に掲載するバンドスコアの採譜をするのがメインの仕事だったのだけれど、やっているうちに機材回りの話などを補足するためにインタビュー記事の取材についていったり、アーティストによるレクチャー記事の構成を考えたりする仕事に発展していった。

しかし世間はゆずを筆頭に、ギターデュオスタイルで歌うアーティストが乱立していてバンドは下火。この雑誌はわずか1年で休刊となり、以後再刊されることなく現在も休眠中だ。

教本出版との出会い

音楽学校時代の同級生に、彼の高校時代の友人という人を紹介されて仲良くなった。好きなアーティストが似ているから「たぶん話合うと思うよ」と言って紹介してくれたのだった。ひょんなことからそいつが通っているギタースクールの合宿についていくことになった。その移動のバスで、たまたま隣の席になった人と仲良くなった。その人がギターの教本を書いている人で、話しているうちに「ベースの本を書いたらいいんじゃない?」と言われた。

合宿から戻るとすぐ、教えてもらった出版社(自由現代社)にメールを送った。僕はこういったものであるがベースの教則本を書く用意があるけれどどうだ、みたいな、今思えば編集部がよくそんなの相手にしたな、と思うぐらいの勢いだった。むろん僕に教本を書いてみろと勧めてくれた人が裏で保証してくれたに違いない。

最初の本は編集部の指示で、初心者向けのベース教本を書いた。『今すぐ始めるロックベース入門』という本だ。これはここしばらく増刷改訂されていないので新品での入手は難しいかもしれない。この本は文体もいわゆる教本口調で、僕の著書の中でこれだけが僕らしくない。何もかも初めてで依頼されるままに書いたからだろう。

これを書いたあと、教本の世界はどういうことになっているのだろうか、と思って楽器屋を巡り、いろいろな教本に目を通した。そして、コードを知りたいと思う人が最初に読める本が無いということに気づいた。初心者向けっぽい本の序盤がわかりにくく、これじゃ挫折する人が多かろうと思った。

そこでこれを企画書にして、自由現代社に持って行った。それが『そうだったのか!コード理論』という本で、これはタイトルも含め、僕が持ち込んだ企画がそのまま本になった。これはおかげさまでいまだに僕の本の中で最も売れていて、つい先頃も改訂版が出た。

この『そうだったのか!コード理論』の企画を持ち込んだのは24歳の時だったのだけれど、そのとき僕は1つ、心に決めたことがあった。それは、「教則本なのだけれど文体にこだわろう」というもの。僕はこの本を書くために同じようなターゲットに向けられていそうな教本をほとんど読み、次いで、文庫で読んだことのないエッセイストの本を大量に買ってきて、文体を研究した。文学ではなくエッセイにしたのは、初心者向けの教本は軽い文体の方が良いだろうと思ったからだ。

たぶんこれまでどこにも書いていないが、僕は『そうだったのか!コード理論』の文章を、酒井順子さんのエッセイの文体を参考にして書いた。「〇〇のです。」という語り口が優しく、酒井女史はけっこうきょーれつなことを書いていても物腰が柔らかく感じる。これを大いに参考にして、自分なりの教本文体を模索しながら書いた。この本は以降現在まで、18年間改訂に改訂を重ねて売れ続けている。

教本出版ではその後面白い編集担当者と出会い、編集さんと一緒に本を作るということの面白さを知った。これまで何人もの編集さんと一緒に本を作ったけれど、編集さんによって僕の中になかったものが生まれるという経験をした相手は一人だけだった。その人については改めて別のところで書こうと思っている。

3DCGとの出会い

僕はギター合宿で偶然席が隣になった、教本執筆のきっかけをくれた人を通じて、実に様々な人に出会った。その人からのつながりでいくつか趣味のバンドをやった。お医者さんが趣味でやっているバンドもものすごい面白さだったのでこれもどこかに書くが、ここではそれとは別の、奇天烈な音楽をやる趣味バンドの話を書きたいと思う。

奇妙な曲を書くギタリストが中心になったインストゥルメンタル(いわゆる歌のない音楽)をやるバンドで、そのギタリストが、本業はCGクリエイターという人だった。

ちょうど僕はAfter Effectsからの流れで3DCGに興味を持ち、当時一番安く買えたShade というソフトを使ってCGを始めたばかりだった。

そのギタリストが本業はCGクリエイターで、当時ニンテンドー64のゲームなどのCGをやっていると聞いたので、僕はShade で初めて作った作品を見てもらった。

そしたらこれが、褒められたのだ。技術云々じゃなくて絵になってる、というようなことを言われた。僕は調子に乗った。なに、才能あるんじゃね? と思った。

CG初体験作品

ちなみにこれがその作品。これはShade を触り始めて2日目ぐらいに作ったもので、Shade の自由曲面モデルでブール演算を駆使して作った覚えがある。当時たしかPentium2か3かそのぐらいのCPUで、これ一枚レンダリングするのに14時間ぐらいかかった記憶がある。

その人に、ちゃんとCGをやろうと思うならポリゴンモデルをやった方がいいし、ブーリアンは便利だけど使わないでも作れた方がいい、と言われ、当時Shade ではポリゴンモデルは作れなかったのでLightwave に買い替えた。ちょうどそのころ、今や時の人となった新海誠さんが「ほしのこえ」という作品をLightwave を使って作り、CGをやる人たちの希望みたいになっていた。

このときはっきりとCGで映像を作りたいと思い、音楽の仕事をしながらCGを学び始めた。

だいぶ端折って書いてきたつもりなのにもう7000字を超えてしまった…。

このころまだ僕は25~6歳ぐらい。このあと彼女に振られたりロックバンドをやったりコスプレしたりアイドルの追っかけをしたりいろいろあった上で、北海道へ移住することになるのであった。

後編へ続く…