きっかけはいつも偶然 ~後編~

前編に引き続き、後編をば。

東京で生まれ、父の出張に合わせて何度か引っ越しをし、幼稚園から高校を卒業するまで、神奈川の横浜市に住んだ。その後も都内にアクセスしやすい神奈川県というあたりに暮らしながら28歳までは首都圏を活動のフィールドにしていた。

北国との出会い

ある時期、いくつかの偶然が重なって、「好きだな」と思ったものが北欧に集中しているということがあった。ベーシストのニールス・ペデルセン、家具のアルネ・ヤコブセン、F-1ドライバーのミカ・ハッキネン、食器のイッタラ…。

全部北欧じゃん。そうだ北欧へ移住しよう。

…。無謀だ。英語もあやしいのに北欧なんて、そもそも何語なんだ。

調べた。小さなデンマークがちょびっとだけスウェーデンとくっついていて、スウェーデンとノルウェーはスカンジナビア半島を分断するように並んでいる。フィンランドはその二国と北の方で接しながらボスニア海を挟んで対面するように大陸側にある。この四つの国の中で、フィンランドだけが全然違う言語を話す。ほかの三国は似たような言語で、それぞれ異なってはいるものの印象は近い。なぜかフィンランドだけがどことも似ていない言葉なのだ。興味深い。

僕はフィンランドに強く惹かれ、フィンランドに関する本を読み漁った。

フィンランドに住みたい。

しかしさすがの僕も、いきなりフィンランドに引っ越してやっていけるとまでは思わなかった。いずれは。生きているうちには。

そんなことを思っていたとき、インフルエンザに罹った。当時フリーでやっていた仕事では、「病気になるのは仕方ないし、死んだりするのも避けられないけど、死ぬときは納品だけはしてから死ねよ。」と言われていた。今思えばもうブラックとかそういう次元ではなくイントゥ・ダークネス。闇である。

インフルエンザの高熱でもうろうとしながら音楽データを作る仕事をした。バンドの活動は停止した。何をしているんだろう僕は。

そして天啓のようにひらめいた。そうだ。まずは国内で北の方に住んでみよう。北海道だ。

当時僕の周りにも、東京から離れて暮らしたいというようなことを言っている人はいた。沖縄に住んでみたい、北海道に住んでみたい、京都、神戸、四国。でも実際に引っ越す人はほとんどいなかった。みな口々に言った。「仕事がないからね…」

本当に? 僕は疑問に思った。だってその土地で暮らしている人はいるわけでしょう。その人たちはどうやって暮らしているの? その地に暮らしている人がいるということは、何らかの仕事はあるということで、暮らしていくことはできるのではないか。そう思った。フィンランドだって仕事はあるだろう。ただフィンランドだと言葉の問題があって、僕が仕事を得られるかというとはなはだ怪しい。でも国内であれば、少なくとも言葉は通じるのだからなんとかなるのではないか。

よし、北海道へ行こう。

インフルにうなされながらそう思ったのはたしか5月ぐらいだった。北海道へ引っ越すための飛行機に乗ったのが9月末。その間にネットで住む場所を探し、借りていた部屋を引き払い、引っ越しの荷物を減らすために大量のCDや本を処分した。

専門学校との出会い

首都圏から北海道へ拠点を移す。当時音楽の仕事をしながら趣味で映像を作っていた僕は、せっかく拠点を移すのだから仕事の軸足も移そうと考えた。映像の方を仕事にし、音楽を趣味にしようと考えたわけだ。

それなら映像制作、CG制作をちゃんと学ぼう。

ここで移住先は「北海道」というでっかいくくりから「札幌」という具体的な都市に絞られた。映像制作を学べるような学校が札幌にしか無かったからだ。

僕は札幌の専門学校でCGを学ぶことにし、早々に願書を出して引っ越した。CGを学ぶために札幌に引っ越す。大義名分ができた。でもいろいろな人に言われた。「CGをやるなら東京にいたほうがいいんじゃないの?」と。僕はそれに対してこんな風に返していた。

テレビがデジタル放送になって多チャンネル化するとコンテンツが不足する。今後は一気にコンテンツ不足が進み、特に地方のTV局が独自のコンテンツを作るという時代が来る。だから地方に拠点を置いた映像制作というのはごく当たり前のことになるはずだ。

インターネットがブロードバンドで高速化し、映像のような大容量のデータをストリーム転送できるようになる。テレビ放送はデジタルになり、チャンネル数が数倍に膨れ上がる。すでにCSやBSもあり、ものすごい量のコンテンツが必要になる。コンテンツを作るのに東京にいなきゃいけないという時代はすぐに過去になる。

僕はこれを「ディスタンス・ゼロ」と呼んでいた。ディスタンス・ゼロの時代はすぐそこまで来ているはずだ。2006年当時、まだ初音ミクもなかったしYoutuberもいなかった。地方のTV局は半分以上キー局の作った番組を放送していた。

僕の読みは間違っていなかったけれど、当時は少々早すぎた。しかしそれからの10年で僕の想像よりももっと先まで行ってしまった。Youtubeの普及によってコンテンツ制作自体が身近になり、世界中の人がみんなコンテンツを作って発信できるようになった。スマートフォンは予想をはるかに超えた端末になり、Netflix みたいな映像配信サービスが乱立した。

なのに相変わらず、コンテンツ制作の中心はまだまだ東京だ。コンテンツを作るのに東京にいなきゃいけないという時代はなかなか過去にならなかった。

話がそれたが、そういったような思いで、札幌の専門学校に入学した。学費を一部免除してくれる特待生の制度があったのでこれを受験し、半期分66万円を免除してもらった。その66万円を全部使って、CGを学ぶためのコンピュータを買った。

アニメの仕事との出会い

当時、北海道でアニメの仕事ができる会社はほとんどなかった。その数少ない一つが、ちょうど僕が専門学校の二年生に在籍している年に、新卒募集をした。旭川にある会社で、僕が入ったときは全部で9名だったけれど、今はたぶん3倍近くになっているのではないか。

募集されていたのはアニメの撮影職だった。学校では3DCGを専攻していたし、撮影と言う仕事はしらなかった。でもAfter Effects を使うと書いてある。After Effects なら知っている。VJ をやるときに買ってモーショングラフィックスを作るのに使ったあれだ。専門学校でもコンポジット作業で使った。

撮影は知らないがAfter Effects は好きだ、という志望動機を書いて応募した。面接では「旭川は空が広くて好きだ」と言った。採用された。

新卒枠に応募したけれど、その年に30歳になった僕は「中途扱いでいいでしょ」という話になり、二年生に在籍していたけれど、夏からすぐ働くことになった。札幌の学校に通っていたけれど旭川へ引っ越し、二年生の後半はもう学校へは行かず、卒業式にだけ出席した。

オンラインゲームとの出会い

30歳にして初めて就職したアニメの会社ではFF11(ファイナルファンタジー11)が流行っていた。これはFFシリーズのオンラインゲームで、いわゆるMMORPGという、たくさんのプレイヤーが1つの世界で過ごすというタイプのオンラインゲームだった。それまでオンラインゲームというのを一度もやったことがなかった僕は、会社の中で最後にこのゲームを始め、みんながやめたあとも一番最後までやっていた。

僕はこのオンラインゲームという仕組みに大いにハマり、一時期、僕に急用があるときはゲームにログインしてチャットで呼ぶのが一番早い、とまで言われた。実際、仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、すぐにゲームにログインして画面の前でメシを食う、みたいなことをやっていた。

当時一緒に暮らしていた彼女(今の妻)は僕がいない間もずっとゲーム世界に入り浸り、僕が家にいるときは二人して別々の画面の前でメシを食いながらゲームをする、というだいぶまずい状態でしばらく暮らした。

その後、長男が生まれる少し前にFF11はやめたのだけれど、長男が1歳を過ぎた頃、再開した。完全にやめたのは2012年ぐらいで、そのときはもう一緒に遊んでいたゲーム内の仲間がほとんどいなくなり、ゲーム内が過疎化してサーバが統廃合されるなど、「終わり感」が漂い始めたことで気持ちが遠のいたのがやめる理由だった。

今、FFは14というのがオンラインゲームとして出ている。僕も妻も、これには手を出していない。明らかにまずいことになるのが見えているからだ。MMORPG はもはやゲームではない。生活だ。今僕は生活を全部オンラインゲームにぶち込むことはしたくない。だから今はやらずにおこうと思っている。いずれまたきっとどこかでやると思うけれど。

プログラミングとの出会い

旭川のアニメの会社には多くのことを経験させてもらった。魅力的な人にもたくさん出会った。僕はここに3年ほどいて、退職した。

退職後はまたフリーでいろんなことをやりたいと思っていたのだけれど、初めて就職した会社を初めて退職した僕は、まずは退職しないとできないことをやろうと考えた。

具体的には、失業保険をもらうことと、再就職支援を受けることだ。

フリーランスには失業保険というのはないしそもそも就職していないから再就職もない。せっかく貴重な「退職」という経験をしたのだから、退職後の人しか享受できないものを享受しよう。

そのようにして僕はハローワークに通い、失業保険をもらいながら再就職支援の仕組みを調べた。すると、国がやっている基金訓練というのがあった。これはものすごい制度で、ごく簡単に言うと金をもらいながら勉強できるのだ。

退職して再就職していない人というのは「失業者」という扱いになって、これが増えるのは国として問題だ。だから国としては失業者を減らしたい。失業者を減らすというのは燃やすとか粛清するとかそういうことではなく、彼らを再就職させるということだ。

再就職するためには、何らかのスキルがあったほうが有利だ。だからそのスキルを身につけさせよう、という発想に基づいたものだ。そのための講義を受ける。普通何らかの講義を受ける場合は受ける側が料金を支払うわけだが、この基金訓練という制度はちがって、その間の生活を保障してくれるのだ。生活費を出してくれる。その金で暮らしながら技能を身につけるための講義を受けなさいよ、というわけだ。そんなうまい話があっていいのか。

今はこの制度がどうなっているか知らないが、僕が受けたときはアニメ会社の給料とほとんど変わらないぐらいの金をもらえた。給料が安いのか基金訓練が高いのかは、皆さんの判断にお任せする。

僕はここでWebプログラマというコースを受講した。バックエンドのPHP、データベースのSQL、フロントエンドのHTML、CSS、JavaScript 等を学ぶコースだ。僕はそれまで、プログラミングに興味はあったけれど何度も挫折していた。いろんなことをやってきた僕だけれど、絶対にできないと思っている仕事が2つある。1つはDJでもう1つはプログラマだ、と公言していた。この二つは、やっている人たちが何を考えているのかまったく想像もできなかった。

このWebプログラマコースを受講したことは非常に大きかった。特にPHPやJavaScriptの講義をしてくれた人はいにしえのプログラマみたいな爺さんで、今思うとかなり古い発想で物を言っていた。でもおかげで僕は一応逐次処理のプログラムは書けるようになり、自分でWebサーバを立ててサイトを運用する、みたいなことができるようになった。

このころ、amazon のデータを引っ張り出して成形して見せる「教則本サーチ」というサイトを作って公開したりしていた。(今はもうない)

楽器のリストがあり、リストから楽器を選択するとその楽器の教本がドバっと表示される、というようなサイトだった。このサイトでAmazon アソシエイト(客をAmazonへ導いて見返りをもらう仕組み)を使い、50円ぐらい広告料を得た。(ほとんど誰にも使われなかったという意味…)

講師業との出会い

基金訓練でWebプログラマの勉強をした僕は、何らかの形で「再就職」をしなければならないという事態になった。それは当然だ。国の金で再就職を目的として勉強したわけだから、それはもう結果を出す必要がある。

いずれ専門学校の先生をやってみたい、と思っていた僕は、何らかの講師の経験が欲しかった。そこで、基金訓練を受けたところとは別の、旭川市内のパソコン教室で、別の基金訓練の講師をやることにしたのだ。基金訓練を受けたあとそれを教える側になる、という流れである。どうだ参ったか、という感じだ。

そのころ、国の基金訓練という仕組みは地方のパソコン教室にとってはドル箱みたいなものだった。普通にやってもなかなか生徒が集まらない中、基金訓練を受託すれば生徒はハローワークで集めてくれるし、金は国から出る。受講者も国の支援で生活しているけれど、受託している学校にも通常業務よりはるかに割のいい金が出る。そういう要素に頼った経営は国の制度が変わったとたんに資金繰りの軸が揺らぐので本当は避けた方がいいのだけど、現実にはそこに頼って事業を拡張してしまうようなところが多かった。

こうして僕はパソコン教室の先生になり、基金訓練で再就職を目指す人にワードやエクセルを教える、というのを軸に、ときどき高専向けのLinux サーバを立てる方法を解説したコンテンツを作ったり、個人で受講しにくる人にFlash のAction Script を教えたりした。時給は800円だった。

この仕事で僕は非常に有能な人と出会い、また大いに影響を受けたのだけれどそれはまた別の機会に。

このあと、札幌に新しくできるアニメの専門学校が講師を募集するという話を聞いて、僕は話を聞きに行った。そして、ここで話を聞いてきた、という話をもって、母校の姉妹校に出向いた。

母校の姉妹校もアニメ業界を目指すための専門学校で、ちょうどすぐ近くにこの新しい学校ができる、という状況だった。僕はそこへ行き、「新しくすぐそこにできる学校で講師を募集していて、僕は専門学校の講師ってのをやってみたいと思っているから話を聞いてきたのだけど、どうせやるならその新しいところじゃなくて母校に近いところで、よく知った先生のいるところでやりたいと思うんだけどどう?」みたいなことを言った。ほとんど脅迫だ。

この脅迫は意図通りの効果を表し、異例のスピードで話が進み、卒業式が行われている会場で面接を受けてその場で採用が決まった。すぐ、数週間後の新年度からさっそく授業を受け持つことになったのだ。(それからあとの話はこちら

アニメ制作会社との出会い

僕は今(2020年3月末現在)、東京に本社を置くアニメ制作会社の札幌分室に在籍している。こうなった経緯もたくさんの偶然の結果なのだ。それを振り返ってみる。

2012年、僕は専門学校の非常勤講師を始めて、それと並行してフリーランスでアニメの撮影やCG、地元の映像制作やVJ、Web系の仕事などをしていた。

ちょっと脇にそれるが、このころやっていたWeb の仕事は、デザイナーが作ったデザイン(イラストレータのデータ)を、サーバサイドから動的に出力されるデータを使って構築できるように、テンプレートエンジンで使われるHTMLとCSS を作る、というような仕事であった。この仕事は興味深く、UIデザインはデザイナーが行い、システムはプログラマが作るのだけれど、それらをつなぐ部分をできる人がいない、という話だった。プログラマの都合に合わせた形で、デザイナーの意向を形にしてほしい、という話なのだった。両方ともある程度わかる人ということで僕に指名が来たのだ。これは分業体制のチームの中にも、あれもこれも中途半端なやつの居場所ってあるんだな、という発見になった。

そんなことをあれこれやりながら講師をしていたら、ある日学校から電話がかかってきた。その日僕は授業がなく、ほかの仕事をしていた。電話をしてきたのは副校長先生だった。

「田熊先生、〇日学校に来られる?」

ナニゴトかと思って聞いてみると、東京からアニメ会社の人が来て、アニメーション学科の授業のことなんかを聞きたいと言ってきたのだけど、その日アニメーションの学科長(唯一の常勤の先生)がちょうど東京に出張していて不在なのだそうだ。校長先生と副校長先生が対応はするのだけど、現場の授業の話がわからなくて、先方の聞きたいことに答えられないから来て一緒に話を聞いてもらえないか、という相談だった。

僕はフリーだったのでスケジュールを調整すればその日数時間学校へ出向くことは全く問題なかった。その場で「いいですよ。」と答えた。

そして僕は東京から来たアニメ会社の社長とプロデューサーを学校側のスタッフとして迎え、自分の経歴やら学校で教えている内容などを説明した。

その日の夜、この社長からFacebook の友達申請が来た。すぐ二週間後ぐらいにまた来るから、飲みにでも行きましょうと。(※Facebookは退会済でアカウントはもうない)

その話の通り二週間後に会った時、飲み屋で、札幌に拠点を作ろうと思うのだけどやってもらえないか、と言われた。その場で「いいですよ。」と答えた。

正直な話、僕はその会社がどんな会社かも、どの程度の規模なのかも、何を作っているのかも全然知らなかった。でも地方拠点を作るべくあちこち視察していて視察先で20分ぐらいしゃべっただけの専門学校の講師をつかまえて、新たに拠点を置くからやってくれ、というのはものすごい行動力だと思った。視察に来たすぐ2週間後に僕に会うためだけにまた札幌くんだりまで来たのもすごい。

会社のことはよく知らないがこの社長は面白い。どんな会社であれ、この社長と一緒に仕事をするのは面白そうだ。そう思った。

たしかこのとき2012年の10月ぐらいだった。その年の4月から講師を始めたので半年ぐらいだろうか。この翌年、2013年の3月、けっこうな広さのオフィスで札幌支部はスタートすることになる。準備期間は半年もない。3月の時点でその広いオフィスにいるのは僕一人。4月から新卒の若手を採用してのスタートとなった。

フットワークの軽い社長に惹かれて引き受けたのだが、それからのあわただしさはただごとではなかった。新たな地方拠点を興すというのに何一つ決まっていなかった。僕も大変だったが、もともといた社員も大変だったろう。あとで社長自身から聞いたが、僕に会った時点では、地方拠点をやるというのはまだ具体的な話ではなかったらしい。数年のうちにはやりたい、ぐらいの感じで視察をしていたら僕を見つけたんで、すぐやることにしたのだそうだ。そんなでかい話をよくもまぁ20分しか話してないやつに任せようと思いましたね。つくづくすごいな。

ツールプログラマの仕事との出会い

そんな風にして大きなアニメ会社に再び「就職」することになったわけだが、経緯が経緯なので入ってからが異様に大変だった。

まず、社長がほとんど独断で勝手に誘ってきた僕は、ほかの社員からすれば「どこの馬の骨」であった。そもそも僕はこの会社に応募していない。採用されることが決まったあとで履歴書を提出したような次第で、そのほかの資料は何も提出していない。書類選考もされていなければ一次面接も二次面接もない。現場の人は誰も僕のことを見たこともない。居場所など用意されているはずがない。

拠点を任せるとはいえ、まだスタッフもいない中仕事もない。とりあえず研修を受けてほしいという話になって、何日か東京の本社へ出向いた。

このとき、札幌へ視察に来た時に会ったプロデューサーが僕の研修を担当するはずだったのだけれど、行ってみたら大きな作品が動いていてその人は走り回っており、会社にいなかった。ほかの人は事情を聞いておらず、僕は放置状態になった。とりあえずその辺に座っててください、と席を用意された。適当に打ち合わせに参加したりしてて、と言われ、わけもわからないままいろんな打ち合わせに参加するなどした。何をすればいいのかわからない僕と、そんな僕をどうすればいいかわからない人々。

僕は自前のノートPCを持って行っていたので、その辺に座っててと言われた席に座り、適当に出てと言われた打ち合わせで聞いた話を一発で実行するAfter Effects のスクリプトを書いて、その日知り合ったディレクターに渡した。After Effects のスクリプトを書くのは生まれて初めてだったのだけれど、どうせ放置されてて暇だし、チャレンジしてみようと思ったらできたので渡したのだ。

そうしたらこれが思った以上の反響をもらった。こういうのが作れるなら作業の支援ツールを作ってほしいという話になった。その時動いていた大きな作品でちょうどそういう人が必要だということで、外注しようかどうしようかみたいな話になっていたのだそうだ。それをオマエやらないかという流れになった。

繰り返しになるが僕はこの日初めて、ちょっとしたスクリプトを初めて書いただけなのだ。After Effectsのスクリプトを書いたのはほんの数分前で、それ以外のことは何も知らない。3Dで使うツールなんか見たこともない。

それでも僕は即答した。

「やります。」

そこから見たことも聞いたこともないMaxScript という3dsmax 用のスクリプト言語を覚えてツールを作った。右も左もどころか上も下も前も後ろもわからない。

新境地、暗中模索、五里霧中(五七五)。

こうして僕はその時動いていたアニメーション作品『楽園追放』のCGチームが使う作業支援ツールを開発し、映像作品に初めてプログラマとしてクレジットされた。

2013年にこのような動きがあったあと、2020年の現在まで、おおむね似たようなフィールドで活動をしている。同じような場所で7年も活動するというのは初めての経験だ。そろそろいろんなところが膠着してくるので動かねばなるまい。

教えるに学ぶ」で書いたように、この3月で専門学校の非常勤講師という仕事から退いた。それも一つのきっかけにして、今年は何か新しいことを始めてみようと思っている。